一気に読み終わった『声』。最初はちびちび読んでいたが、後半はぐいぐいストーリーに引き込まれ、楽しく読み終えた。この後はネタバレの嵐なのでご注意。
クリスマスを迎えようとするホテルの喧噪、怪しげなイギリス人レコード蒐集家、父親からの虐待が疑われる男の子、病理学研究所助手とのディナー、雪山での遭難から帰らぬ弟。様々な糸が絡み、物語に厚みを出している。
天使の声と言われたボーイソプラノの少年の突然の声変わりや性的少数者であったがゆえの家族との確執、最後は多額の現金に運命を狂わされた点が同情を誘った。
訳者あとがきにもあったが、著者アーナルデュル・インドリダソンは事件の犯人捜しより被害者の生きてきた過去に焦点を当てることを重視しているようだ。
この小説では、親子関係がテーマの一つになっている。親が子に過度の期待をかけるのはどちらにとっても悲劇的だ。親の期待に答えようともがく子どもの姿が痛々しい。そして、自分の人生を犠牲にしてしまう。
そういう不幸を招かないためには親が子どもの人格を尊重し、子どもを私物化しないことが重要である。だが、親は期待してしまうし、道を外さないようにと口やかましく世話を焼いてしまうのである。それがのちのち子どもをダメにしてしまったり、子どもから恨まれる結果になったりするとしても。
最近、中国からの留学生たちの中に親の過度な期待にストレスを感じると訴える人がいることが思い出された。中国が貧しかった90年代にこういうことはあまり聞かなかった。親孝行する人が多かったが、それは親たちが期待したものではなく、完全に自発的なものだった。親たちが裕福になり、子どもに多額の学費をかけられるようになったことで、学生たちは親の期待を裏切れないと感じている。自由でいたいなら資金援助を受けてはいけない。お金を出す人は必ず口も出してくる。
だが、福祉が充実し、子育てや教育、老後の介護などに肉親が私財を投じる必要のない社会は、きちんと税金さえ払えばすべて政府が賄ってくれる。個人主義が成り立つ理想的な社会のはずではないのか。東アジアのウェットな家族観とは異質でドライだと思っていた。
実は、どこの世界でも家族の絆は重要なテーマで、子どもは親からの無償の愛を糧に育つという物語が多い。それが欠けていたり不十分だと感じながら育ったりすると、うまく子育てに関われない親になることがあるとこの物語も示している。
中国からの留学生の中には、両親は外で働いてばかりいて小さい頃からほとんど一緒に過ごした思い出がないという人がかなりいる。過保護の親がいる一方で、祖父母や全寮制の学校に頼りきりで全く子育てに関わらない親もいるのである。
子育てに悲鳴をあげている最中の私にとってはなんとうらやましい話かと思うが、これはこれで疑問も感じる。子育てしながら親は親になっていくのだ。すべて丸投げしてしまっては人生の楽しみが何なのかわからなくなる。
人は様々な経験に揉まれて成長する。そう肝に銘じて、子育てのさまざまな段階をときにはメタ的視点から自分を客観視しつつ楽しんでいくのが得策かと思う今日この頃である。