数日前、娘が図書館で借りてきた『吾輩は猫である』をノートに写し始めた。夏休みに入り、なぜかこれを写そうと思いたったようで、特に悪影響があるとは思えなかった…いや、むしろ好ましい行動だと思ったので、不思議に思いながらも温かい目で見守ることにした。
そして、今朝、ぽろっと「『吾輩は猫である』を写すのは、また時間のあるときにしよっと」と言ったので、「なんで写そうを思ったん?」と尋ねると、「古典を写して、覚えるねん」と言う。
「えー? 『吾輩は猫である』は古典ちゃうやろ」と私。
「えっ? そうなん?」と娘。
そういえば、1学期の国語の時間か何かの課題で、清少納言の『枕草紙』の冒頭部分をノートに写して一生懸命覚えていたっけ。みんなは「春はあけぼの」と「夏は夜」までしか覚えないのに、私は秋も冬も覚えたいと張り切って覚えていた。『奥の細道』や『平家物語』の冒頭も上の子と一緒にうちで暗唱していた。その一環だったらしい。
しかし、夏目漱石は言文一致体で小説を書いたはずだから、古典ではあるまい。ただ、今の子どもにとっては古典との区別がつきにくいのかもしれない。
娘の借りてきている本は、講談社の「ポケット日本文学館」というシリーズのもので、右線が引いてある語には横や別記事に注釈が入っている。例えば、最初の注釈は「書生」という語についているもので、別ページに次のような詳しい注釈がついている。
書生(七ページ)
学生の総称。また人の家に住み込んで、玄関番や家事を手伝いながら学問をする青年。
確かに「書生」は現代っ子には通用しない語であろう。
あとは最近使われない当て字に注が書かれている。例えば、さんま(秋刀魚)を「三馬」と書いていたり…。
この注釈、なかなかどうして、子どもでなくても役立つことが多い。
なるほど、これだけ注釈がついていれば、古典でないと言われても子どもにはピンと来ないのであろう。近代文学などという分類を習うのはまだ先のことである。
それはともかく、夏目漱石を暗唱するなら、『吾輩は猫である』じゃなく、『草枕』だろうと思った。
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
夏目漱石『草枕』
小学校5年生には難しいだろうが、こういうフレーズを丸覚えしておくと、年を重ねてから味が出てくるのだけどなぁ。