中1の息子が学校で薦められ、基礎英語1を聞いている。私も弁当を作りながらお付き合いする。特に興味深いのは、各回のダイアログに「タマザエモン」というサムライのロボットが出てくることである。
このロボットの日本語がまるで「忍者ハットリくん」のようなサムライことばなのである。例えば、
I’m Tamazaemon.
拙者はタマザエモンでござる。
〔名詞+でござる〕Call me Tama.
拙者のことはタマと呼ぶでござる。
〔動詞+でござる〕
「私はタマザエモンです」といったありきたりな日本語訳でないところが、中学生たちの注意をひくのに役立つと考えてのことなのだろう。日本語に存在する位相の異なる様々な言い方が、英語ではたいてい同じになるという点が伝えたいのかもしれない。この教科書を使って逆に日本語を教えるのはたいへんだと思うが、そんなことを考えているのは私くらいなものだろう。
サムライロボットを基礎英語1に登場させる意図はともかく、このタマの話すサムライことばはまさしく金水敏の言う役割語である。本物の「侍」がそう言っていたかどうかは関係がない。サムライっぽく聞こえればそれでよいのである。
「名詞+でござる」はよいのだが、「動詞+でござる」に関しては時代劇に出てくる本物の太刀を佩いた「侍」なら、
拙者のことはタマと呼べ。
拙者のことはタマと呼んでよいぞ。
などと言ったかもしれない。だが、ここで重要なことは「侍」のリアリティーを追求することではなく、あくまでかわいさの残るサムライキャラクターとして印象づけることである。それが、文末の品詞を問わず「でござる」という記号を付与するだけのサムライことばが使われる理由である。しかも、タマはロボットなのだし。
そうとは理解しているのだが、イで終わる形容詞(日本語教育の世界でイ形容詞と呼ばれる)に「でござる」が【1】のようにそのままつくと、【2】のように「ウ音便使おうよ」と思ってしまう。
【1】おいしいでござる。
〔形容詞+でござる〕【2】おいしゅうござる。
〔形容詞のウ音便+ござる〕
形容詞のウ音便は、現在でも
ありがたい → ありがとうございます
お+はやい → おはようございます
などに残っているではないか。
話は少し飛ぶが、私は小学校1年か2年の頃、関西弁そのままでなく、標準語の丁寧体で日記を書くのに苦労した記憶がある。主に苦労したのは京都弁のハル敬語を使わずに書く点だったが、もう一つは「楽しかった」のあとに「です」を加えるのに何やら抵抗を感じたことである。今となっては「楽しかったです」に何の違和感もないのだが、当時はなぜか非常にすわりの悪い言い方に思えた。
そこで思い出すのが、東京オリンピックでマラソン銅メダルをとった円谷幸吉選手の遺書である。
ひたすら繰り返される「美味しうございました」そして、最後の「幸吉は父母上様の側で暮しとうございました」
円谷の自殺は1968年1月。円谷はサムライでもなんでもない、1940年生まれ、当時27歳の青年である。
その彼がこれほど形容詞のウ音便を多用しているのだ。ウ音便はこの50年足らずの間で淘汰が進んだと言える。
1970年代あたりはまだ丁寧な書き言葉として「おいしゅうございました」が残っていたが、子どもにそれを書かせるほどのことはなく、かといって「おいしかったです」を手放しで肯定する雰囲気でもなかったのではないかとぼんやりと考えてみたりする。
では、この形容詞のウ音便は2010年代後半を生きる私たちにどのような印象を与えるのだろうか。ある種の封建的なものも含みつつ、古き良き時代のなつかしい言い回しで、滅多にお目にかからないほど、非常に丁寧で改まった印象……であろうか。