グローバル化が進むのはたいへん好ましいことではあるが、本来その言語にあった豊かな語彙がどんどん淘汰され、均質化していくのを残念に思うこともある。
子どもが幼いころ、祖父母との接触場面でよく方言語彙が問題になった。
ある日、おじいちゃんおばあちゃんといっしょに子連れでファミレス「かごの屋」に行った。その店には、かつて銭湯で見かけたような、昔ながらの下駄箱があり、かなり大きいサイズの木製の鍵がついていた。斜めに差し込むとカチッと鍵が開くタイプのもので、先には櫛のような切込みが入っている。子どもたち(当時4~7歳)にはこの鍵が非常に物珍しく、手にとってしげしげと眺めては遊んでいた。
食事を終え、いざ帰ろうとすると、さっきまで遊んでいた鍵が見当たらない。慌ててあちこち探す子どもたち。そこで私の父が言ったことばは
「鍵うしのうてしもたんか(失ってしまったのか)」
子どもは意味がわからず、ぽかん。私はすかさず、
「それは子どもらわからんわ。『なくした』って言わな。」
しかし、このウ音便だらけの京都弁を聞き、両親(昭和13・20年生まれ)より上の世代の人たちは「なくす」と言わずに「失う」って言っていた記憶がよみがえったのだった。
標準語の「失う」は「職を失う」「気を失う」「バランスを失う」など抽象的なものを対象とすることが多い。だが、なぜか京都では「鍵」のような具体的なものを「うしなう」と言える。古い日本語が残っているのだろう。その「失う」には標準語の「失う」とは何やら異なる方言のにおいのようなものが漂う。
そういえば、「うしなえる」とも言えると思い、検索してみた。「うしなえる(一段動詞)」だと、京都以外にも但馬、岐阜、名古屋でも言うらしい。
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これと似たようなことが他にもあった。たいていは父が幼い息子に言う。切り換えようとしないのはたいてい男性だ。
子どもの日に新聞紙で息子(当時3,4歳)が作ったカブトを見て、
父:「これ、〇〇君がこしらえたんか」
息子:「こしらえる」って何?
私:「それは『作る』って言わんと通じひんなぁ」
あるときは、3歳の息子に飴を与えて、「これはねぶっとくねんで。かんだらあかんで。」
ご存じの方も多いと思うが、「ねぶる」は「なめる」の意味である。息子は「ねぶる」の意味がわからず、かなりの大きさの飴をごくっと呑み込んだものだから大騒ぎになった。それまで一度も私は息子には飴を与えたことがなかったのである。「かんではいけない」と言われ、「なめる」と言われなければ「呑み込む」しかないと思ったのか。
どの語も私にとっては非常に身近な語だったはずだ。しかし、わが子たちには全く伝えられていなかった。祖父母が同じ関西圏に住んでいる、うちのような家族ですらこうなのだから、日本全体では、きっと多くの方言語彙がものすごい勢いで失われつつあるにちがいない。それは、歓迎すべきことというよりは、やはり憂うべきことではないかと思うのである。ノスタルジックな感傷に過ぎないとしても。