国語の宿題で重松清 作「カレーライス」全編音読に嫌気

娘(小6)が宿題だと言って、重松清 作の「カレーライス」(光村図書 国語六 創造)を全編音読する。それももう7回目だ。

うちの娘は全く真面目なタイプではないので、適当にやっているほうだと思うが、よそのご家庭ではこの話を10回以上聞かされているのではないかと思う。この宿題にはほとほと嫌気がさしたので、書かずにはいられない。

この話は日常的な親子のやりとりが中心になっており、男の子がお父さんとささいなことで喧嘩をして、謝らなくてはいけないと思いながらも謝れず、最後は「カレーライス」を作って仲直りするという話だ。おそらく登場人物の心情を読み取るという目的で載せられているのだろう。

しかし、この話の中で使用されていることばはあまりにも日常的なもので、今の子どもが学ぶべき語彙が使われていない。敢えて言うなら「半信半疑」「ほんのり甘かった」ぐらいだ。これを六年生の国語の教科書に載せてしまうことも驚きだが、これを何度も音読させる教師も教師だ。想像力が足りないと思う。

夕食を支度のため電子レンジや換気扇が大きな音を立てるなか、上の子は基礎英語を聞き、下の子は「カレーライス」を音読をする。大不協和音だ。泣きたくなる。

読むのに10分もかかるため、ずっと大きな声で、句読点に気を付けて、丁寧に心情を表現しながら読むのは難しい。聞いている方もずっと集中して聞いているわけにはいかない。

しかも、主人公の男の子がお父さんに謝らなくちゃと思いながら謝ろうとしないところは、聞いていてなんとも気分が悪い。毎回毎回その気分の悪さを反芻させられるので、さらに気が滅入ってくる。

母親が仕事で忙しい週は「お父さんウィーク」と称して父親がごはんを作る……という設定も初めて聞いたときは、新鮮に感じたが、何度も聞くと嫌味でしかなくなってくる。父親が料理を作ることがそんなに偉いのか。

音読はすばらしい学習活動だと思うが、それは教材によるということを痛感する。音読が効果を上げるのは少し難しめの、理解に時間を要する教材であるときだ。例えば、文学でも現実と少し違った世界や時代を舞台にしているものだと学ぶべき語彙が出て来るだろうし、身近なものごとを科学的に説明した文でもよいと思う。

とにかく一回読めばわかるような、現実の生活に密着した話を何度も音読させるのは本当にやめてほしい。

そして、長い話を音読させるなら、ページ数や段落を指定して、朗読があまり長時間に及ばないようにしてほしい。だらだらと長い話を読ませると読むほうも聞く本も集中力が持たない。双方にとって疲労感のみが残り、何もよいことがない。

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