授業も一期一会:教師は傲慢になるべからず

長い間、日本語教師をやっていると、ときにすばらしい授業展開になることがある。クラス活動やグループ活動で学生たちがノリにノって、いい意見を次から次へと出して議論が進んだり、すばらしい発表をしたりすることがある。

先日の授業は、どんなレポートを書こうと思っているか、アウトラインを発表するというものだった。昨年度一人だけパワーポイントを使いたいという学生がいたので許可したところ、非常にレベルの高いを発表した。そこで、今年度は全員にパワーポイント使用を義務付け、発表してもらった。

すると、全体のレベルも昨年度より高かったのだが、そのうちの何名かは写真やグラフ、アニメーションを駆使して(しかし、決して過剰にならず)非常にすばらしい発表をした。日本語の授業にここまで時間を割いてよいのかと不安になるほどの出来だった。

どうも、学生の中にはパワーポイント作りにはまってしまう人がいるようだ。ただの口頭発表だとそこまで準備しないが、パワーポイント作成だと没頭してしまうのだろう。私も経験がある。どんどんアイディアが湧いてきて時間のある限り手を入れてしまうのである。

その日たまたまあった講師会議でこのことを話してみた。すると、同じように全員にパワーポイントを課したが、あまり出来が良くなかったというクラスもあった。すべてのクラスにこの方法がうまく作用するというわけではないことがわかった。

たまたま真面目な努力家でパワポ作りにハマれる人が私のクラスにいたというだけなのだと理解し、何事も過信は禁物であると思った次第である。

授業で学生がすばらしい力を発揮すると、教師の手柄のように思ってしまうのだが、それはちがう。確かに自分が一生懸命準備したタスクが学生たちの学習にピッタリはまって盛り上がるということはある。だが、同じことを別の機会に別のクラスでするとうまく行かないことがしばしばある。

授業というものは、そのクラスの人数、メンバー、一人一人の気質や意欲、信頼関係に加えて、教師のその日の授業の持って行き方、究極的にはその日そこにいた人一人一人の気分など、ささいなことが複雑に作用して展開していくものなのだろう。同じことを同じように扱っていても、不思議なものでひとつとして全く同じように展開する授業はない。

そう考えると授業も一期一会。すばらしい偶然を少しでも増やせるよう、教師がコントロール可能な部分については手を抜かず、学生たちが力を最大限発揮できるよう工夫して行きたいものだ。

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