日本語教師になって以来、来る日も来る日も非母語話者の書いた文章をチェックし、訂正してきた。語彙や文法のおかしな使い方があると即座に赤ペンを持ってどう訂正すれば日本語らしくなるか考える。ほとんど職業病だ。
母語で考えた文章を無理に翻訳した作文は最も厄介だ。日本語らしい言い回しに変えるのがたいへんで、私の添削作業はまるで翻訳家のようにその状況に最も適当な表現を探す作業になる。しかし、これはおかしな話だ。私は学生が言語能力を向上させるのをお手伝いする役割のはずなのに、逆に彼らに私の翻訳力や言語感覚を磨いてもらっているようなのである。
「文の意味がわかりません」と「?」クエスチョンマークだけ打つこともできる。だが、これで改定作業が前に進むかというと、疑問である。やはり何がわからないのか説明する必要がある。そして、それを書いた人が伝えたかったことが何か確認する必要がある。
こういう作業を仮に1クラス12人分するとしたら、かなりの時間と労力を費やすことになる。2000字程度の小論文を教師がチェックするのに1人40分、さらに話を聞いて言いたかったことを特定するのに何分かかかるとして、45×12=540分=9時間が必要になる。
その莫大な時間と労力がかけられた真っ赤な作文は、果たして彼らのためになっているのだろうか。よく見もしないでどこかへうちやられてしまうのではないだろうか。
仮にしっかり読み返したとしても、あまりにもたくさんの指摘だと消化不良を起こしてしまわないだろうか。最悪の場合、日本語を続けて学ぼうという意欲に影響が出かねない。
そこで、間違いの指摘は最も重要なものだけにするというのも一つの方法だと思う。その人が消化できるものだけにする。どう直せばいいかも教師が指摘するのではなく、本人に考えさせるという方法も最近よく使われる。しかし、しばしば正しい表現にたどりつけない。何が間違えているのか全くわからない人には、あまり効果がない。
学習者の自律学習を促すために、お互いに作文をチェックし合う、ピアラーニングも10年以上前から盛んに行われている。だが、ピアラーニングもよほど意識が高く、意欲あふれた学習者でないとなかなかうまく機能しない。
ここしばらく、レポート原稿の提出が集中しており、チェックに時間をかけ過ぎたために授業の準備が疎かになるということが私の授業では起こってしまっている。そして、疲れた状態だと教師がみんなのやる気を引き出したり、楽しい授業を心掛けたりするのが難しい。
速く心を切り替えて、この負担を軽減し、なおかつ、学生の学習効率の高められる方法、例えば、自律学習(オートノミー)などを身につけさせたいものである。