「食べるはしから ぼくになる」:保育園の「文学」の時間

ミルクをのむとぼくになる(与田準一 作)

ミルクをのむとぼくになる
たまごをたべるとぼくになる

やさいをたべるとぼくになる
パンをたべるとぼくになる

おかしいな おかしいな
たべるはしからぼくになる

下の子が2~3歳の頃、保育園で文学の時間というのがあって、この詩を子どもたちが暗唱していた。まだ字も読めないが、先生が言うのを真似して言ううちに暗唱できるようになる。

子どもたちはだいたいの意味を理解して復唱するのだが、最後の1行だけはよくわからないまま言っていたようだ。どういう意味か訊かれた記憶がある。

「食べるとすぐにぼくの体になる」

なんだこのつまらなさは。言い換えてしまうとこの詩の味わいが吹き飛ぶ気がした。「食べものが食べたものから順にどんどん「ぼく」の一部になっていく」という感じがない。この詩の味わいはすべてこの「はしから」にかかっていると言ってもいい。だが、普段はなかなか使わない表現だ。

この表現について調べてみると次のように書かれていた。

『明鏡』(大修館書店)
はし【端】⑤物事の初めの部分。「聞いた—から忘れる」

直前の動詞は辞書形とタ形の両方が使えそうだ。
これと似た表現に「そばから」がある。「そばから」なら以下の辞典三点にも例文が載っていた。「はしから」はいずれにも載っていなかった。

森田良行(1988)『基礎日本語辞典』p.702
1 覚えるそばから忘れる
2 (雪が)降るそばからどんどん融ける

小学館(1994)『使い方のわかる類語例解辞典』p.1131
3 種をまくそばからカラスがそれをほじくっていく

グループ・ジャマシイ(1998)『教師と学習者のための日本語文型辞典』くろしお出版p.171-172
4 子供達は作るそばから食べてしまうので、作っても作ってもおいつかない。
5 読んだそばから抜けていって何も覚えていない。

なぜ「そばから」はあるのに「はしから」は載っていないのだろう。

そしてなぜこの詩の最終行は「そばから」ではなく「はしから」なのだろう。

食べ物が「はしから」順番に余すところなく「ぼく」の一部になっていく、この様子を表すためには「そばから」ではいけない。子どもたちにはこういう豊かな表現を味わいながら育ってほしい。まさに「文学」だと思った。

子育て中にこの詩を初めて聞いたときは「ごはん」ではなくなぜ「パン」なのかと思ったものだ。幼い子の口に入るものには少しでも添加物が少なくなるよう、心を砕いていた。食べたものがこの子の体を作ると思うと、気が引き締まった。

中1と小5になった今、子どもたちは私の作る食べ物に文句しか言わない。あのときの苦労はいったいなんだったのかと思うが、またこれも成長なのだろう。

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