ドラマ『アウトランダー』シーズン4:小説とドラマの差

小説を原作とした映画がさまざまに作り変えられるのには2時間という尺の都合上、仕方があるまいと思っていたが、「ドラマでもこうなってしまうのか~」とうならされたドラマ『アウトランダー』のシーズン4。

2019年春休み、Netflixの1か月お試しを利用して『アウトランダー』シーズン1~3を視聴した私は完全にその世界にはまってしまった。シーズン4はHuluですでに公開されていたが、新学期が始まってしまったこともあり、お預けとなっていた。しかし、物語の続きが知りたくてたまらない私はダイアナ・ガバルトンの原作本『妖精の丘に再びⅠ~Ⅲ Drums of Autumn』(加藤洋子訳 ヴィレッジブックス)を借りて少しずつ読み進めたのだった。

当初は服装の描写などに戸惑ったものの、小説の情報量、特に心理描写の多さに感激しながら楽しく読み終えた。9月3日現在は『燃ゆる十字架のもとに The Fiery Cross』の4冊目を読んでいる。

ドラマと小説の乖離が激しいというコメントをどこかで読んでいたが、実際これほどとは思わなかった。

まず、小説『妖精の丘に再び』には全く登場しないマータフが突如鍛冶屋のおやじとして現れることだ。実はこれについてもネット上のコメントでドラマ視聴前にすでに知っていた。しかし、まさか小説に出て来る何人もの登場人物の役割をマータフが1人でやってしまうとは…。レギュレーターの親玉でお尋ね者なのはまだしも、ジョカスタの恋人になってしまったときには開いた口が塞がらなかった。ああ、マータフ。

確かに小説ではアメリカへ渡ってから新たな登場人物がわんさか登場し、私の頭の中を錯綜していた。ドラマに出ていない登場人物の姿を頭に思い描きながら読むのは、当初イメージがつかめず心もとない感覚があったが、だんだんそれも楽しめるようになってきたところだった。

ドラマはやっぱりあんまり人を出し過ぎて複雑にし過ぎてはいけないのだよね。役者が増えるとその分ギャラもかさむし、製作費が跳ね上がってしまう。事情はわかるのだが、いくらなんでもあんまりではないか。

ブリアナの背がクレアより低そうだとか、病弱なはずのリジーがけっこう肉付きのいい娘さんだとか、いろいろ齟齬があるのは当然としても、なんでもマータフにさせてしまうというのはアイディアとしてはたいしたものだと思うが、小説を読んでしまった者としては残念至極である。

小説を読んで私が想像していたのとずいぶんちがうと思ったのは、アメリカ先住民(インディアン)たちがやたらおしゃれでかっこいいこと。衣装も髪型も凝っていてセンスがよいのだ。ドラマでリアリティーを求めすぎると差別をあおることになってはいけないのだろう。男性はみんな肌の色は浅黒いのだが、酋長以外モンゴロイド系の平面的な顔立ちの人が見当たらず、やたら彫が深い。混血しているにしてもちょっとねぇ。

ロジャーが先住民たちに「エハオコンサ(犬面 )」と呼ばれているのには笑った。小説にはなく、ドラマならではのシーンだ。ロジャー役のRichard Rankinのひげ面が犬っぽいことからこのエピソードが入れられたのだろう。

最後にどうしても言及したいのがシーズン4の諸悪の根源、スティーブン・ボネット。ブラック・ジャック・ランデル亡き後、今後の悪役は彼が一人で引き受けていく展開だ。小説では極悪非道を絵に描いたような顔つきだと想像していたのだが、ドラマではエド・スペリーアス Ed Speleersが演じている。どこかで見かけたと思ったら、なんと『ダウントン・アビー』でハンサムを鼻にかけた下僕ジミーを演じていた俳優だった。意外な配役ではあるが、嫌味な役という意味ではこれでよいのだろう。彼の画像をいろいろ見てみると、見れば見るほど田原俊彦に似ていると思ってしまった。

ドラマにはドラマの楽しさがあるとはいえ、やはり小説というメディアの偉大さに脱帽した。特に小説では匂いの表現が強烈だ。これはいくら映像化しても伝わらない。シーズン1の初めの方にはマータフの体臭についての言及がクレアの独白部分にあったが、シーズンを重ねるにつれて独白は減っているように思う。

大興奮だったブリアナとロジャーの初夜も映像では小説ほどではなく、あっさり終わってしまった感じが否めない。小説だとつらい部分が長いから幸せが倍増するのだろうか。やはり100%アウトランダーを楽しむためには小説を読むべきだとつくづく思った次第。

『燃ゆる十字架のもとに』を読み終えたら一度『時の旅人クレア』(シーズン1の原作)に戻って読み返してみようか。

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