すでに刊行から2年以上経っているが、やっと村上春樹『騎士団長殺し』を読んだ。身長60㎝くらいの自称「イデア」だという独特のキャラクター「騎士団長」のことばづかいがおもしろい。雨田具彦という画家が描いた強烈なメッセージを含んだ日本画に登場する飛鳥時代の衣装に身を包んだ人物だという。誰かが絵にしてくれないかなと思うが、私自身まだ頭にこのキャラクターの像をうまく描けずにいる。
騎士団長のことばづかい
騎士団長が現れたところで、物語の雰囲気がそれまでと比べて軽妙なものに変化した。そのことばづかいの特徴は以下の3点である。
- 自称詞は「あたし」を使用。
- 相手が1人であるにもかかわらず「あなた・君」といった単数の対称詞の代わりに「諸君」という複数対称詞を用いる。
- 動詞「ある」の現在否定を「ない」ではなく、「あらない」と言う。「ある」の未然形「あら」は現代の東京方言では使用されないが、古語では「あらず」、関西方言では「あらへん」などということができる。
非常にシンプルな体系と言えるが、このことばづかいの効果は予想以上に大きい。
1.「あたし」
身長60㎝のイデアとはいえ、騎士団長はサーベルを持った立派な成人男性であるため、女性がインフォーマルな場面で用いる自称詞「あたし」は彼にそぐわない。日本語には男性が使用する自称詞のバリエーションは「ボク・オレ」をはじめ、「おいら・拙者・それがし」などまで多彩だが、女性のバリエーションは「アタシ・ウチ」ぐらいであまり多くない。にもかかわらず敢えてもっともそぐわないものを選んでいる点が非常に意図的だと言える。ただ、この自称詞の登場回数はそれほど頻繁ではないため、あまり印象には残らない。
2.「諸君」
騎士団長独特の対称詞「諸君」は自称詞「あたし」よりは頻繁に現れている。
日本語の対称詞の主なバリエーションには「アナタ・キミ・オマエ」があるが、相手をどう待遇するかに焦点が置かれることが多い。「アナタ」はニュートラルだが、「キミ」は同等か目下、「オマエ」は目下の相手に用いられる。一方で「オマエ」は非常に親しい間柄で親しみを込めて用いられる面もある。「自分より目上の場合は名前に「-さん」をつけたり役職名で呼んだりすることもあるし、待遇表現(尊敬・謙譲語など)を駆使するなどして対称詞の使用を避けることもある。
「諸君」は一般的には不特定多数の人を相手に演説などをするときに用いるフォーマルな対称詞である。場面的にはフォーマルだが、待遇面で言うと決して目上相手に使われるものではなく、同等もしくは目下の大勢に向かって使用する。例えば、社長が社員全体に、教師や学生の代表が多くの学生を相手に、何かを訴えるといった場面である。21世紀の現在も使用されているのかは少し疑問で、前世紀の男性社会(例えば軍隊など)で使用されていた印象である。
1対1のかなり親密な会話で「諸君」が用いられるのを読んだときは違和感が大きかった。だが、ここで意図されているのは「前時代的」で「男性らしい」点かと思われる。自称詞「あたし」との対比ではギャップが最も大きいところと言える。
相手が単数か複数かという点での違和感も確かに大きいが、英語の you やフランス語の vous が単複同型なのを考えると、人称詞だけ単数か複数かにこだわる日本語に興味深さを感じた。
この「諸君」は外国語ではどう訳されているのだろう。「みなさん」のようなことばになっているのだろうか。
3.「あらない」
最も印象的なのは「あらない」である。騎士団長は飛鳥時代の装束を身につけているらしいので、古語を話せばよいのにと思うが、なぜか珍妙な「あらない」を使用するのである。
古語「あらず」を使うと神妙すぎるし、関西方言「あらへん」を使うとお笑い芸人になってしまう。村上春樹は神戸の生まれだし、騎士団長に関西弁を話させることもできたと思うが、あえて既存イメージのないことばづかいを求めたと考えれらる。
だが、私は日本語教師なので、入門期の学習者のこういった発話に触れることがないわけではなく、しばらく「あー、活用間違ってる~。直してほしい…」という感覚がぬぐえずにいた。きっと一般の人が「あらない」を騎士団長独特の言葉遣いと認識するより時間がかかったのではないだろうか。復習をさぼっている学習者の姿が浮かぶのである。ただ、実際に学習者が「あらない」と発話することはかなり稀で、さっさと「ある」の否定は「ない」だと習得してしまう。「あら」というナイ形を作ることの方が彼らには面倒なのかもしれない。
まとめ
騎士団長のことばづかいをここまで見てきた結果、村上春樹が意図したのは、以下のようなことかと考えられる。
- 女性的な部分もあり、男性的な部分もあり、ある意味中性的であること
- 古典的であり、現代的でもあること
- 親密な話し方でもあり、且つ、フォーマルでもあること
- 既存イメージのない風変わりな話しことばであること
それにしても、翻訳者泣かせなこの話し方、各国語できっと様々な工夫がされたに違いない。そう考えると、デンマークの翻訳家を追ったドキュメンタリー『ドリーミング村上春樹』も見てみようかという気分になってくるのだった。