なんて一途なのか、この少年は。何十年もずっと一人の女性を思い続けている。(大量ネタバレあり)
レイフ・ファインズの少したれた青い目がとても悲しそうに潤む。真面目な少年は真面目なまま大人になった。そして、数々の本を読み上げ、テープに録音して、刑務所に送る。まさに『愛を読む人』だ。
だが、この映画のレイフ・ファインズは、なぜかハリー・ポッターシリーズのヴォルデモートのイメージがふわふわと浮かんで来てしまう。『グランド・ブダペスト・ホテル』では全く浮かばなかったのに。ひげの有無で人はけっこうイメージが変わるのと、シリアスな役だからか。
ハンナ役を演じたケイト・ウィンスレットもよかった。讃美歌の響く教会で目を潤ませるシーンはとても印象的だった。彼女が何か大きな問題を抱えていることが暗示されていた。文盲であることが次第に明らかになる中、ある日を境に少年マイケルの前から姿を消してしまう。
そのハンナがナチス裁判の被告として法科の学生になったマイケルの前に現れる。文盲であることを隠したいがために人の分の罪まで被ることになってしまう。そこまで字が読めないことを恥じていることに驚く。マイケルは彼女に文盲だと言うように説得に出向こうとするが、結局思いとどまり、会わないことにする。
無期懲役を言い渡されたハンナは、刑務所の中で年老いていく。マイケルは結婚し、娘ができるが、離婚する。マイケルはふと思い立って本を朗読してテープに録音する。ハンナはマイケルから送られてくるテープを聞きながら、文字を覚える。
出所の一週間前に30年ぶりくらいに会ったマイケルとハンナは昔の思い出話をしたそうだった。だが、戦時中に起こったことについてどう思っているのかとマイケルに訊かれ「私がどう感じようが、どう思おうが、死者は戻らない」という強い台詞を吐く。原文は以下のとおり。
“It doesn’t matter what I feel and it doesn’t matter what I think. The dead are still dead”
なぜこんな言い方をしたのだろう。私の気持ちなど何の役にも立たないと言っている。出所日の自殺とどう関連すると、理解すべきなのだろう。
読めるようになった喜びを分かち合いたかったのに、マイケルが戦時下の行いについて何を感じ、何を学んだのかと問いただしたことで失望してしまったのだろうか。
ハンナが少しずつお茶の缶に貯めていたわずかなお金を、裁判の原告側に立っていた娘に渡してい欲しいと言い残したと知り、ニューヨークまで持って行くマイケル。レナ・オリン扮するユダヤ人の娘は贅沢な生活を送っている。そのお金を受け取ると「許した」かのようなので、お金は受け取らないと言い、アウシュビッツにいたころに盗まれたものと似たお茶の缶を受け取る。
ユダヤ人被害者の生活の豊かさと文字も読めなかったハンナの惨めな生活ぶりが対照的で、なぜこんなふうに描くのだろうと疑問に思った。
「文盲だったら許されるとでも?」確かにそうだ。だが、きっとハンナは文字が読めないことで多くの情報から隔離されており、ただ言われた仕事を真面目にするしかなかったのではないだろうか。何を学んだかと訊かれても文字を学んだとしか答えないハンナ。文字の読めない世界にいない我々には想像できない部分があるのではないかとも思った。
無期懲役になっても文盲を隠し通させる愛と、あの戦争から何を学んだのかと追及したい気持ち。そして、その両方を察知して自殺してしまったハンナ。なんとも言えないわだかまりを残して終わる映画だった。