「公主命、丫鬟身」《血観音》:根底に愛があるかどうか

二回目《血観音》を見た。前回よりは話が見えてきたように思う。以下、ネタバレの嵐なので、ご注意。

今日の学びは「公主命、丫鬟身」という表現。この映画のキーセンテンスの一つのようなのだが、まず「丫鬟」ということばがわからなかったので、調べてみた。

【丫鬟】yā・huan
((清末から中華人民共和国成立以前のいわゆる旧社会の言葉)) 名詞 小間使い,侍女.≡丫环.≒丫头2
『白水社 中国語辞典』

アルファベットの「Y」のような漢字は女の子を指す「丫頭 yātou」ということばで使われるのを知っていたが「鬟 huán」の方は初めて見た。字幕を停めて目を凝らすも細部が見えずどうやって調べようかと躊躇したが、スマホのGoogle chromeで「丫」を入れたら「鬟」の字が出て助かった。

昔の侍女の髪型から来ている呼び名らしい。

「公主命、丫鬟身」は「公主」が「お姫様」の意味なので、「姫として生んだのに、下女のような生き方だ」と言っているのだ。

このセリフが出てきたのは、洋服屋から喪服が届いた中にスケスケの黒の下着があり、棠夫人が棠寧に買ったのだと棠寧の体に合わせてみたときだ。

その前に林さん一家惨殺事件を調べている警察の廖隊長はバツイチだけどいい人らしいよという会話があったため、棠寧は廖隊長を誘惑せよという意味だと捉える。棠夫人はそこまで意図してこの下着を買ったわけではないという意味だろう。棠夫人は棠寧に誰かしっかりした人の結婚してくれればと思ってのことだったのに、棠寧がそれを母からの指令と捉えた点を言っているのだ。

事実、棠寧は廖隊長といい関係になり、その写真を使って棠夫人は廖隊長を黙らせるわけだが、本当に棠夫人が娘のためだけを思って何かすることなどあるだろうかと思わせられた。母親が未婚の母になって久しい娘にスケスケの黒下着を買う時点でどうかしているし、何か意図があると思われて当然だと思う。

娘、棠寧は結局母の手ごまとして動かされ、母は自分の取引をうまく進めるためなら手段を選ばず、口封じに娘をも殺してしまう。この映画には見事に「愛」というものがない。敢えて言うなら、棠寧が海辺で実の娘棠真の腕にかけていた手錠を外した瞬間くらいか、淡い淡い愛を感じたのは。

楊雅喆ヤンヤージェ監督は愛のない世界を映画にしようしたと言っている。ある小学校で我が子を守るためと称し、HIV陽性の児童に出て行ってもらおうと署名を集める保護者たちに戦慄を覚えたという体験がこの映画の素になっている。このエピソードを聞いたときはあまりピンと来なかったが、利己的な人たちを許せない正義感の強さがこの映画を作ったと今では思える。

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以前、私の日本語の授業をとっている中国の女子留学生が、授業後、雑談しているうちに泣き出したことがある。ゼミの先生に自分の日本語をみんなの前で取り上げられ、注意されたのが嫌だったという。私は非常勤講師なので、常勤の日本語の先生にこの件を委ねる際、その先生が学生に尋ねた質問が印象に残っている。「このゼミの先生の行為に愛を感じますか」

愛があればアカデミックハラスメントだと学生は感じない。本人が愛を感じられないと思った時点でそれはハラスメントなのである。そして、この「愛」は意外と適格に伝わるものだ。

人間、追われていると余裕がなくなり、心が乾いてくる。強い悪意はなくても、愛のない言い方をしてしまうことがある。誰でも加害者になりうる。このことは、私にとっても大きな教訓となった。根底に愛があるかないか、それが重要である。

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