カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』に漂う「日本的」なものとは?

台風で出かけられなかったので、2005年発表のこの小説を一気に読了した。

2005年は第1子を生んだ年である。その年にこのような小説が出版されていたなんて、不思議な気がした。初めて命を授かり、こうやって人は生まれ、成長するのかと毎日が小さな驚きに満ちていたあの頃。親になる責任感とともにこの子をどう育てるか、一大実験が可能であることにもワクワクしていた。この子を外国で育てれば、複数言語を操る、多様な価値観を持った子になるにちがいない、などと。

残念ながら、この13年間息子は日本で引っ越しすることもなく育ってしまったのだが。

小説『わたしを離さないで』に戻ろう。

抑制のきいた語り口で、淡々と語るキャシー。彼女には真面目に生きてきた自負のようなものがある。そして、抗うことなく自身の過酷な運命を冷静に受け止めている。

イシグロ自身がテレビドラマ化の際、TBSテレビのインタビューで次のように語っているのが、気になった。

現代イギリスの悲観的な別世界を想定していますが、この物語を書いているときに私の作品の中でも最も「日本的」な話だとよく感じていました。

いったいどこが「日本的」なのだろう。イシグロの説明はこうである。

中心人物たちの願望や葛藤、悲しい運命に対する彼らの態度や人間のありように対する全体的なビジョンは、私がイギリスで育ったときに吸収した日本の映画や書籍の影響を多く受けていると思います。

私には彼らの運命に対する「あきらめ」というか「腹をくくったような態度」が日本的なのではないかと感じた。

初めから自分たちが運命を変えられるなどと思ってもいない。こういうものなのだから仕方がないという諦観。そして、変えようとする人がいたとしてそれを冷ややかに見る目。

なぜかわからないが、家事や子育てにがんじがらめに縛り付けられる日本の母たちの姿が浮かんだ。専業主婦でいられるのはよほど裕福な家か子どもが小さいときだけ。仕事もこなしながら、家事や子の世話の手を抜こうとしない。

日本語教師をしていると、各国の母たちがどの程度家事や子育てに時間をかけているのか気になってしまう。すぐに祖父母の元へ送ってしまい、子育てに一切関わらない母親などザラな中国を筆頭に、小学校から寮のある学校に入れるとか、料理は作らず外食するとか、家政婦を雇うとか、ありとあらゆる「手の抜き方」が世界的には駆使されている。

なんでも母親が愛情込めて世話をする必要があるという呪縛に絡めとられているのは日本だけではないのか。

そして、賃金の男女差。女性が正社員として働き続けることの難しさ。シングルマザーの貧困。なんて不平等な世界だろう。こんなことがまかり通るのはこの「日本的なあきらめ」のせいなのではなかろうか。

少子化をなんとかしたければ、子どもを産みたくなるシステムを作ればよいのだ。以前、オーストラリアでは子をたくさん産めば、働かなくても政府の手当だけで生活できると聞いたことがある。今のままでは、日本で子育てするのは苦労が多すぎる。少子化が進まないほうがおかしい。

そして、早くこの「あきらめ」から目を覚まして、日本の母たちよ、自身の自由をもっと希求するべきだ。世界の標準がどこにあるのか実際のところ、よくわからないが、日本の母たちはもっと手を抜いていいと思う。家事をしない母親を「怠け者」だとか非難(自責?)するのはやめて、余裕のある生活を取り戻そうではないか。

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