「審判だって人間だ。人間である限り、ミスは犯す。」
『ニューアプローチ中上級日本語完成編』第11課p.211
中上級向け日本語文法の授業で出てきた「~限り」という表現を使った例文。
中国語話者4名、ベトナム語話者2名のクラス。学生たちに向けた私の質問は「さて、ここはいったいどこでしょう。」
私がこの例文を見て頭に思い浮かべていたのは、2014年ブラジル開催のW杯開幕戦で日本人審判の判定が厳しすぎると猛攻撃を受けた話だった。
中国語母語の学習者は日本語力の高い学生も含め、法廷にいると想像していた。これがサッカーや野球のようなスポーツの場面とつながらない。
『中日辞典』小学館
shěnpàn【审判】
〈法〉審理と判決(をする).裁判する
用例
【审判】
~员yuán 判事.裁判官.
~长zhǎng 裁判長.
cáipàn【裁判】
1〈法〉裁判をする.
2〈体〉(運動競技の)審判をする.
3審判員.アンパイア.▶“裁判员yuán”とも.
逆に私が《裁判》という中国語を見て、スポーツの「審判」だと思えるかというと…やはり法廷へと想像が飛んでしまう。
しかも面白いのは、どちらの言語でもスポーツ関係の「審判」・《裁判》が「-員」をつけずとも人を指す点である。裁判より急を要するからか。
日本語の「審判」が「物事の是非・適否・優劣などを判定すること」を指すのも事実で、「国民の審判を受ける」「最後の審判」(『デジタル大辞泉』より)のような使い方もある。
しかし、いったい何をきっかけに「スポーツの審判」が両言語で異なる語に意味付けられるようになったのだろう。中国語と日本語にはこのようなズレがよくあるから不思議だ。でも、こういう発見をしたときに語学学習のおもしろさを私は再認識する。
しかし、『ニューアプローチ』という日本語教科書を作った小柳昇氏、中国語母語の学習者の誤解を巧みに誘う、本当にどちらともとれる例文…さすがだと思った。